5月
19
葉山で「ベン・シャーン展」を見て以来、ベン・シャーンのことを、ひたすら調べている。英語の文献は、英語力の不足から、ゆっくりしか読み進められないが、それでも知らないことに出会うたびに、うれしくなる。6月からは、福島県立美術館で、「ベン・シャーン展」が始まる。先日、ベンシャーン研究で知られる学芸員の荒木康子さんと、お話させていただいた。福島県美は、以前からベン・シャーンらのアメリカ現在美術のコレクションが充実している。来月の後半になったら、ぜひフクシマに行ってみようと思っている。
ベン・シャーンの生きた時代は、アメリカが何度も、大きな変動にさらされた時代だった。故郷・リトアニアから、南アフリカ経由で、ニューヨークに渡った時、アメリカはまさに、ヨーロッパで生きていけない人々の最後の希望のような国だった。しかし、1929年の世界大恐慌は、その希望を無慈悲にも打ち砕く。農業でも工業でも、食べていくことが難しくなる。極端な貧富の差が生まれ、極貧の人たちが、都市や農村にあふれた。そんななかで、ニューディール政策の一環として、芸術家たちを、税金で生活保障し、社会問題をテーマに、写真や絵画で表現させるプロジェクトが立ち上がる。
そのプロジェクトに、ベン・シャーンも参加した。ベンは、そこで、ウオーカー・エヴァンズから写真の撮り方を学び、都市や農村における貧困問題にシャッターを切り続けた。特にこだわったのは、アメリカ北東部、エリー湖の近くのオハイオ州だった。ベンは、オハイオ州の首都・コロンバスや、ロンドン、マリースビルといった街の風景や、人々の表情を撮った。ロンドンは、マディソン郡の中心地だ。あのベストセラー小説、『マディソン郡の橋』の舞台だと思ったが、あれはアイオワのマディソン郡の話だった。残念・・・1938年の夏、ベンは、ひたすらオハイオの市民にカメラを向けた。大胆な写真はない。どこか遠慮がちで、臆病な写真である。町にたむろする人の多くは、失業し、日がな歩道に腰を下ろし、互いの不幸をシェアしながら、時間をつぶした。みんな、決して幸せそうではない。どこか、いらだち、暗鬱な表情をしている。
ベンがオハイオを撮影して74年が経った。かつての街は、今どうなっているのだろうか。暗鬱な表情に変化は訪れたのだろうか。日本の民俗学者・宮本常一さんではないが、写真に撮られた場所を、辿って歩いてみたい。何は変わり、何は変わらないのだろうか。アメリカの地方の小都市の市民の素顔が知りたい。
ベンが、オハイオを中心に撮った写真は、およそ6000枚。もともとベンは、冤罪や社会の不正義に興味があり、それを連作として世に発表していた。都市や農民の窮状を記録したベンは、自分の目指すべき方向を、より鮮明に意識するようになる。そして1941年。真珠湾攻撃を契機に、アメリカも、アジア・太平洋戦争に本格的に加わっていくが、そのなかで、ベンも戦意高揚のためのポスターを描く仕事にたずさわるようになる。
そして、戦争。終戦。ベンは、廃墟になったヨーロッパを、いくつかの作品にしている。さびしく寒々しい絵が多い。1950年代、アメリカ社会を、マッカーシズムが吹き荒れる。事実がどうあれ、一度、社会主義者・共産主義者の烙印を押されると、アメリカで生きていくことが難しい時代だった。だがそれでも、ベンは負けなかった。マッカーシー議員を龍に見立て、龍を倒す側のペルセウスに、ある放送ジャーナリストを見立てるという絵が描かれた。ジョージ・クルーニーが出演した映画「グッドナイト&グッドラック」で、マッカーシーを痛烈に批判したキャスター、エド・マーローである。「See it Know」という番組で、エド・マーローは、敢然と番組の中でマッカーシーに挑んだ。ベン・シャーンは、そのことに感動し、龍退治の絵にしたのだという。実物をぜひ見てみたいものだ。
ベンは、ニューヨークで絵を学んだあと、パリに渡る。当時の絵が残っているが、セザンヌやマティスのような絵を描いていた。しかし、ベン・シャーンは、アカデミズムになじめないまま、帰国する。フランスでは、ゾラが告発した、「ドレフェス事件」を絵のシリーズにして発表した。その後、「サッコとヴァンゼッティ事件」という冤罪を告発するシリーズで、注目されるようになった。当時のアメリカは、ひどい事件もあったが、そのことへの怒りを共有できる時代だったような気がする。そんなアメリカの気質は、その後、どう変質したのだろうか。あるいは、変わっていない部分は何なのだろうか。ぜひとも、解明したいところだ。

亡くなる少し前の ベン・シャーン

サッコらを死刑にした裁判官 不安そうだ

無実の2人 サッコとヴァンゼッティ
5月
18
NHKのEテレの100分de名著で、フランツ・カフカの『変身』が紹介されている。先日4回シリーズの1回目を見た。幻燈のような、不思議な世界に引き込まれ、改めて読みたくなった。カフカの作品をおおよそ読破したのは、高校1年の夏だったか。『変身』を手始めに、『審判』(近頃は、「判決」と訳すひとが増えている)、そして長編の『城』など、摩訶不思議な世界に連れて行ってくれるのが楽しくて、続けて読んだ。その後、日本のカフカに例えられた安部公房の作品にはまった。「無関係な死」「箱男」「けものたちは荒野をめざす」「壁」「砂の女」といった作品は、どれも不条理の極みで、比喩と非現実が交錯するどこかユーモラスな世界にのめり込んだ。
カフカが生きた時代は、第1次大戦後のドイツ圏だった。まさに、ヒトラーが生まれ出る土壌を考える上でも、カフカの世界は参考になる。確かな場所など、どこにもない。自分は自殺しないために、一生のエネルギーを傾注した。あなたは前に進むか、それとも留まるか、絶望に出口はない・・・。こうした、カフカの箴言や告白の類が、胸に響く。
ある日の朝、グレーゴル・ザムザは、自分が、巨大な毒虫に変身していることに気が付く。しかし、虫になってしまったことより、職場に遅刻しやしないか、といったことの方が、グレーゴルにとっては、一大事だった。サラリーマンと作家の二重生活を続けるカフカにとって、自分が虫になるより、仕事に遅れることが、どれほど恐ろしかったか。カフカの小説は、不条理な世界を描いているように語られることが多いが、それだけでなく、本人にとっては、大真面目な事態を描き、そのこっけいさと、残酷さ、不可解さに、人々は新しい文学を感じたのだろう。
カフカは、ドストエフスキーやディケンズを手本にしていた。その意味で、カフカの小説の多くは、どんなにぶっ飛んでいるように見えても、実は、古風なリアリズムに支えらえている。カフカと言えば、父親へのコンプレックスを抱く変人のイメージが強いが、実際は、なかなかいいひとで、常識もあり、ボランティア意識が強いひとでもあった。第1次世界大戦以降、ユダヤ系のソーシャルワーカーが、難民援助の活動への市民権を獲得した。カフカは、難民支援のボランティア活動に積極的だった。
現代において、カフカは、草の根運動のバイブルとなり、エコライフのお手本ともなっている。『変身』は、ユーモラスといより、絶望と哀しみにあふれた小説だ。『絶望名人カフカの人生論』という近刊書があるが、誰よりも落ち込み、誰よりも弱音をはき、誰よりも前に進もうとしなかった、ということが、本の帯に書かれている。絶望名人とは、よく言ったものだと思う。

ノートに習作を綴る日々だったカフカ

初版本には 毒虫の姿は見えない

父が投げたりんごは、虫への致命傷となる
5月
17
2002年に講談社選書メチエから出された『カレーライスの誕生』(小菅桂子著)を読んでいる。最近、いささか忙しく、何やらへばり気味なので、そんな時は、食べ物に関する本を読むと、気持ちが楽になる。
インド由来のエスニック料理を、巧みに変奏し、次々と進化を続ける、驚異の日本の食文化・カレーライス。この由来と未来について、徹底的に調べ上げ、考察を行ったのが、小菅さんの10年前の本だ。先日、ジャーナリストの土井敏邦さんのドキュメンタリーを拝見した時、東日本大震災の被災地に、日本で暮らすビルマ人の人たちが、カレー風の料理の炊き出しをしておられる映像を見た。いったい、去年、被災地でどのくらいの数のカレーライスが作られたのだろうと、想像するなかで、カレーライスの社会史を知りたくなった。
まず、カレーライスに入っている3点セット。じゃがいも、たまねぎ、にんじん。このどれもが外国から入ってきた野菜だ。しかも、インドのカレーにはこの3つは、原則入っていない。いったいこれはどんなからくりから、そうなったのか。たまねぎの原産地は中央アジア。日本に入ってきたのは江戸時代だ。じゃがいもは、ロシアとアメリカと2つのルートから、北海道松前藩に入った。そして、西洋にんじんは、幕末にやはり北海道で栽培され始めた。この3種の野菜を基本に、明治の女性向け雑誌は、こぞってカレーの作り方の企画記事を掲載するようになった。
日本のカレーに必ず添えられる「福神漬」。これは、どういういきさつだったのか。小菅さんは、執念の調査を敢行する。そのなかで、いろんな異説に遭遇する。まず、帝国ホテルの名料理長・村上信夫さんは、自分が考案したと書き記している。しかし、それ以前にも存在したという話を聞いた小菅さんは、福神漬のメーカー「酒悦」などからの情報をもとに、明治30年代のヨーロッパ航路を運航していた日本郵船の食堂が最初だったことを突き止める。ちなみに、福神漬が添えられたのは、1等食堂のみで、2等・3等は、沢庵だった。三種の野菜と福神漬このカルテットで、日本のカレーは、世界でも珍しい、目で見てもカラフルなものに育っていった。
ちなみに、高級カレーの発祥は、ご存じ中村屋。中村屋の別荘は、現在の浴風会病院の敷地の一部になっている。カレーが最初に大衆化した町は、大阪だった。今も大阪ミナミの「自由軒」のカレーは有名だ。そこではなんと、ご飯とカレーが最初から混ぜ合わされており、真ん中に生卵がぽとんと鎮座している。織田作之助が、この「自由軒」のカレーを愛したそうだが、私は子どもの頃、何と不思議な食べ物だろうと思った覚えがある。大阪で老舗のカレーと言えば、阪急百貨店の食堂だ。私はそれより、父に連れられて、大槻能楽堂のカレーを食べるのが、楽しみだった記憶がある。
小菅さんによれば、カレーに豚肉を入れるようになったのは、日清・日露の戦争以降だという。戦地で牛肉の缶詰が大量に消費され、代わって豚肉の需要が増えた結果だそうだ。カレー文化の普及に軍隊は欠かせなかった。特に海軍カレーは、兵役に服した兵士たちが、故郷に復員して、あちこちに広めた。カレー文化は、必ずしも、女性の専売特許ではなかった。メディアや軍隊、男女の協働やすみわけ、そうしたものがもろもろからみあっている、おもしろい社会事象である。
そういえば、レトルトカレーCMで、私つくるひと、ぼく食べるひと、というコピーが、かつて猛反発を生んだことがあった。しかし、我が家などで言えば、カレーだけは、父が作っていた。私も息子にカレーうどんを作るのは、私の役割(ほかもいろいろ作っていたが・・・)だった。
小菅さんは、「日本古来の神様が言うように、ほかのものを作り変えてとりこんでしまう。日本という国に合っているのだろうか」という、ある作家の言葉を引用している。この言葉を発したのは、芥川龍之介。カレーを語るということ自体も、日本文化となっている気がする。

カレーを語ることは 巨大な社会史だ。
5月
16
私の好きな雑誌、『東京人』の6月増刊号は、成蹊学園と吉祥寺の100年というテーマで作られている。我が家は、東京女子大の裏にあるため、駅で言えば、西荻窪と吉祥寺とがほぼ等距離にある。等距離というと聞こえはいいが、どちらもたらたら歩くと20分かかり、さびしいところに住んでいる。ヨドバシカメラやジュンク堂、やきとりのいせや、ビヤホール「戎」、東急百貨店、ミンチかつのさとうミート、羊羹のこざさ、その近くの乾物屋、古書センター、古書よみた屋・・・といったところが、私のなじみの店だ。
増刊号には、なぜ吉祥寺の街が、「日本一住みたい街」になって行ったのかが書かれている。ことの始まりは、17世紀の明暦の大火。江戸の都市計画によって、広い武蔵野の森が開墾され、入植が始まった。地割は、通りに面した部分は狭く、奥行きが深い、いわゆる「ウナギの寝床」スタイルがとられた。道は、おおよそ碁盤の目のようになり、整然と人が住むようになった。これが現在の吉祥寺の北側の街並みの基礎となっている。整備されていないところは、駅の周辺で、ハモニカ横丁や、駅の南のバス通りだ。これらは、敗戦後の闇市の風情を、今に伝えている。
「東京人」の特集は、成蹊学園の100年にあやかった雑誌で、成蹊関係者が買ってくれることを当て込んでいる。人気のアナウンサー・高島彩(あやぱん)、作家・石田衣良、雅楽の東儀秀樹、女優の長山藍子といった顔ぶれがインタビューや、誌上散歩に参加している。私が勤める武蔵学園も歴史があるが、華やかさで負けている感じがする。これは、やっぱり共学の強みだと思う。
卒業生の中に、歴史学・国際政治学者の入江昭さんがおられることを知った。入江さんとは、何度も番組でおつきあいさせていただいた。戦後の成蹊学園は、自由で、国際親善と平和を念頭に社会科教育がなされていた。リベラリズムが徹底し、知性と理性の向上に邁進していた。そうした教育風土が、入江さんをして、アメリカに渡らせ、世界から尊敬を集めるリベラルな歴史学者を生んだ。入江さんは、ハーバード大学教授を長く務め、日本人として初めて、アメリカ歴史学会会長にも選ばれた。ファナティックな愛国的歴史認識を排除し、資料に基づき、理念をもとにした歴史学を創出した。現代の国際政治を論じるにあたって、参考にすべきは、過去からの教訓であることを、わかりやすく説かれた。本当にすごいと思う。
そうした立派な成蹊の教育を受けて、総理の座に上り詰めたひとがいる。安倍晋三氏だ。「東京人」では、私が愛するやきとりのいせやなどを訪問し、成蹊の教育について語っている。こんな一節がある。「私が教育基本法を改正したとき、野党から教師を敵視しているのではないかと、野党から質問がありました。いいえ、そんなことはありません。私は、宮沢賢治の研究家でもあった野村純三先生のような教師に出会ったことで、人生が変わったと思っています・・・」。宮沢賢治の精神が、安倍晋三氏にも脈々と流れていると、自己認識されているのだそうだ。それは、本当に希望がある。これまでは、政治家として、そうしたご自身の側面を控え、周りに配慮し、むしろ正反対のような誤解を受けるような行動さえ、無理してとられたのかもしれない。
わたしと安倍氏は、同い年だ。学校は違うが、戦後民主主義のよき部分を、しっかり学んで育った。ましてや宮沢賢治がお好きだということなら、なおさら親近感を感じる。これからは、成蹊学園の精神と宮沢賢治の魂を、全面展開されることを切に願う。

こういうのも あやかり商法というのか

入江さんの 平和主義・多文化主義に賛成する

いせやの井の頭公園店の 安倍さん
5月
15
今朝は、映像アーカイブ論の授業で、チャップリンの『独裁者』のことを考えた。先週のレニ・リーフェンシュタールの回とともに、考えてほしかったのは、もうひとりの人物のことだった。そう、アドルフ・ヒトラーである。大学に来てから4年目に入るが、初年度の授業では、喜劇王・チャップリンのすごさを再認識してもらえばよいと考えていた。そのためには、「モダンタイムス」や「街の灯」「ライムライト」といった作品の方が、理解や共感を得やすく、「独裁者」は、一部紹介するだけでいいという扱いにとどめていた。
しかし、3年が経ち、大阪や東京の首長の日々の言動を見るにつけ、「独裁者」という作品が、よりリアリティーを持って、学生たちにも受け入れられていることに驚く。過去の映像を評価したり、関心を寄せたりする側は、まさに現代を生きている生身の人間だ。過去に光を当てるか、当てないかは、現代のわれわれのまなざしが、どこを向いており、何に感性を刺激されるかによる。つまり、評価などというものさしは、絶対的なものではなく、常に時代とともにあり、同時代性のなかで行われるということが、はっきりしている。
映画『独裁者』が、アメリカで完成し、公開されたのは1940年。当時のアメリカ大統領、フランクリン・ローズヴェルトは、ドイツを刺激しすぎるということで、この映画に否定的だった。日本やドイツでは、日独伊3国同盟によって非公開とされた。日本人が普通に見られるようになったのは、何と完成から20年の歳月が経っていた。その後、東宝・東和の配給で、日本にチャップリンのブームが起きる。映画好きの高校生だった私は、その頃、梅田の阪急3番街で、「独裁者」を見たように思う。
2002年、前年の9・11を受けて、世界がテロとの闘い一色に染まる中、「独裁者」はパリや、ベルリンでリバイバル上映され、大人気を博した。この時、みんなのこころのなかに浮かんだ独裁者のイメージは、サダム・フセインでは決してなかった。むしろ、テロとの闘いを声高に叫び、開戦理由が薄弱なイラクを先制攻撃しようとする、ブッシュ大統領、そのひとだった。そして、現在は、シリアのアサドであったり、日本の政治家が、「独裁者」と重なって見える。
江藤文夫さんの『チャップリンの仕事』という古典のなかに、「長い間の経験から、アイディアというものは、それを一心に求めていれば、必ずやってくるということを発見した」という言葉を紹介している。これは、独裁者のエンディングのシーンのことを語った言葉のようだ。最初、チャップリンは、兵士たちが武器を捨てダンスを踊るというシーンを撮影した。しかし、彼はこのシーンに満足せず、すべてを捨ててしまう。そして、思い詰めた結果、生まれたアイディアは、散髪屋のヒンケルが、6分間にわたって、平和に向けての演説をし、ラジオの向うの恋人が立ち上がるというものだった。これは、今見ても、感動的だ。当時の映画批評家は、楽天的すぎるだの、左翼思想をふりまく愚策だのと批判したが、その後の歴史の審判は、彼の作品に価値があることに、軍配をあげた。
日本チャップリン学会の大野裕之さんによれば、ドイツ語が話せなかったチャップリンが、ヒンケルの最後の演説で、「刑罰」や「電撃戦」といった単語については、正確なドイツ語を使い、あとは、ほとんどでたらめなのだと言う。チャップリンが、ヒトラーのニュース映像を克明に研究するなかで、彼は、音として「刑罰」「電撃戦」といった単語を覚えてしまったことが、推察される。これは、音楽家であったチャップリンの才能と重なるような気がする。耳がいいのだ。
大の日本贔屓で、えびの天麩羅を愛したチャップリン。野蛮や粗野ではなく優美で繊細な日本文化が、今もわれわれに受け継がれていることを願うばかりだ。

今見ると すごくアクチュアルな「独裁者」

江藤文夫さんの 高級なチャップリン批評
5月
14
きのうは、大阪で日本軍「慰安婦」の問題を考える勉強会に伺った。慰安婦問題を、大学生とともに考え、ナヌムの家に毎年通う、石川康宏さんと学生さんたち、中学教員の平井美津子さん、同じく大学教員の西欣也さんと学生さんたち、兵庫のNHK問題を考える会の西川さんや立垣さんの姿もある。
今回の集まりは、兵庫の会で以前お世話になった立垣さんたちが呼んでくださった。ありがたい。会場の天満橋のホールの近くには、我が家と同じ名前の老舗の昆布店・永田屋さんがある。親戚ではないが、御使い物でよく使う。何やら、故郷の懐に抱かれ、温かく迎えてもらったような、特別な感情が湧きあがった。こんな感情が起きたのは、人生で初めてのことだった。たぶん、最近、具合がよくない母が、一昨日はすごくご機嫌で、まるで私が小学校低学年の頃のような雰囲気に戻っていたこととも関係があるかもしれない。
石川康宏さんのことは、書物を通じて知っていた。出される本がどれも素晴らしい。ゼミ生と韓国の「ナヌムの家」に毎年通い、それをさまざまな本にまとめられた。きのう、会場で、1993年の河野洋平官房長官談話(同じ、安倍晋三という、かつて総理をあっけなく投げ出した政治家が、さかんに噛みついているようだ。)を読み上げた。これは、日本の公式見解として、安倍総理時代からも、今日も変わっていない。その談話をきちんと1ページ割いて、全文を掲載しているのも、石川さんとゼミ生が出した本ならではの見識だ。本来なら、私の発言などは、100%、石川さんの本のなかにあるものだ。私が唯一補足できるとすれば、私自身が番組改変を許し、裁判でも見苦しい振る舞いを繰り返し、取材を受けた元慰安婦の方たちや、制作にあたったプロダクションの人たちを深く傷つけたことぐらいだろう。
それにしても、そんなお粗末な私を、石川さんたちは許してくださった。何と心の広い方たちだろうか。いただいた本『ナヌムの家にくらし、学んで』は、1800日あまり、ナヌムの家の研究員を続けた村山一兵さんと、石川さんたちの共著だ。ナヌムの家のハルモニたちとともに暮らし、一歩一歩関係を作っていった村山さん、2004年、ナヌムの家を訪問し、その帰途、突然ゼミのテーマを変え、学生たちとともに学ぶ姿勢を貫く石川さん。どちらも、謙虚かつ率直で深く敬服する。毎回5時間を超えるゼミに鍛えられ、音をあげることなく、本にまでまとめあげるパワーにおどろく。きのうは、ゼミを卒業して4年目という、山口真実(お名前が、「真実」というのも、すごい)ともお話できた。私のゼミでも、もっともっと目標を高く掲げ、頑張らねばと思った。
これから生きていくにあたって、ものすごい刺激をいただいた夜だった。会では、毎回飲み会の後に、胴上げをするのだそうだが、辞退してよかった。きょうも1限は東京女子大の授業、午後は、ドキュメンタリー制作の実習、その後は、卒業制作の相談が続き、大学の事務が、その間にどかんと入った。いつもなら、へとへとのはずだが、昨日の余韻が、私を元気にしてくれている。本当に、ありがたいことだ。

表紙の写真がイキイキしていて 素晴らしい
s
5月
13
大阪の実家に帰った。父は今年89歳。母は84歳になった。母は、以前より食が細く、心配したが、昨日はそれなりに、しっかり食事が進んでくれてほっとした。父は、いつも新しいものが好きで、小説も最新のものを読んでいる。芥川賞が新たに決まるたびに、いち早く本を求めたり、文藝春秋を求めたりしている。たぶん、芥川賞の時期に、本が売れるのは、父のようなひとが、日本中にいるからなのだと思う。
去年は、実家にあった大量の本を、古書店に買い取ってもらった。中学・高校・大学時代に読んだ、膨大な小説の類は、場所ふさぎになって、ほこりをかぶっていたので、すべて父に任せ、断捨離をした。しかし、空いたはずの本棚には、父がまた、新しい本を買い求め、いっぱいになっていた。いったい本というものは、どういう整理をすればいいのだろうか。
父の本棚に珍しい本を見つけた。2010年に出されて評判を呼んだ、河内孝さんの『次に来るメディアは何か』(ちくま新書)だ。私は、メディア社会学科の教員なのだが、大昔から、既存メディアはダメで、これからは新しいメディアがとってかわる式の論を立てる人に対しては、警戒的だった。自分が、NHKという大手メディアに身を置いていたことも大きいが、NHKのなかでも、もはやNHKに未来はないとか、テレビは終わったという人は、30年前からたくさんいた。そういう人に限って、これからは、西武・セゾンの時代だとか、NHKもすぐ民営化した方がいいとか、電通がすべてを席巻するとか、あとになると、恥ずかしくなるような論だったことが明らかになり、いかに、未来を正確に語ることが難しいことかを、実感する。
さて、河内さんの本だが、2年前の本だが、その方向性は実に正確だと思う。未来予測の本は、書かれた2年後ぐらいに読んで、その方向性が正しかったのか、検証されるのが一番良いように思う。まずは、アメリカの新聞社の苦戦の話だ。これについて、河内さんは、既存の新聞社に公的資金を入れて救済するのではなく、「調査報道基金」をもっと育て、ジャーナリストを、ファンドの力で養成し、取材経費と生活保証をしながら、パブリックなジャーナリズムが、衰退しないようにすることが、喫緊の課題だと語っている。
また、河内さんがこの本を書いたときは、まだ「アラブの春」は来ていなかったが、フェイスブックのようなものが、世の中を動かすことを予見していた。河内さんが、当時例に挙げていたのは、ニューヨーク・ハドソン川での旅客機の奇跡の不時着の映像だ。一般の市民が携帯で撮影し、それを大手メディアが活用するという時代に入ったことを、高く評価していた。その後の、東日本大震災、先日の竜巻などの例をあげるまでもなく、市民の映像の発信は、今や当たり前になっている。
大手メディアは、そうした映像や、市民の情報発信のプラットホームとして、どれだけ機能できるかが、運命の分かれ目なのだと思う。既存メディアが勝手に取捨選択し、自分たちの都合がいいものだけを、編集して届けるのではなく、多くの情報の集積をし、いつでも取り出せるアーカイブとしての機能の強化が求められる。そして、そのアーカイブからの情報を、上手に使いこなす、市民のメディア・リテラシーも不可欠だ。これは、いうのは簡単だが、まだこれが正解という例にお目にかかったことはないが、白石草さんや神保哲生さんたちの、日本の市民メディアの方向性に未来を感じる。
河内さんの本を読むと、アメリカにおける新聞の衰退の結果、多様な言論、真実の追及という点においての危機感が、アメリカ社会の良識派のなかにあふれていることがわかる。すべて市場原理にまかせればいいというのではない。国民の利益のために、ジャーナリズムがきちんと存在することは、大変重要なのだ。
バリューの高い、信頼性の高いコンテンツを、市民がどう選択し、よりよき社会を、協働のなかで生み出すか。その担い手が、安心して育って行ける環境を、どのように構築するか、答えはまだないが、さまざまなひとたちの知恵をいただきながら、少しでもお役に立てるように頑張りたい。

生まれ浪速の 八百八橋のひとつ天満橋
5月
12
去年冬に買った、元NHKプロデューサーで、名古屋大学教授の河村雅隆さんの『放送が作ったアメリカ』を再度読んでいる。河村さんは、NHK時代、私より2期上にあたる。よく番組を放送したあと、廊下で感想を伝えてくださった、ありがたい先輩だ。河村さんは、アメリカという国を理解する上で、理念や原理原則が何より大切で、その争いの歴史だと書いている。このキーワードはとても面白い。
「政府と民間の役割分担はいかにあるべきか」これは、言い換えれば「自由と規制」という言葉にもなる。また、「アメリカは世界のことにどこまでかかわっていくべきなのか」という問いは、まさに安全保障や、戦争、在外米軍基地問題となる。
そもそもアメリカの放送は、マルコーニの無線通信を出自とし、戦時の無線からラジオに展開したところから始まった。今となっては、放送のあとに通信が来たと思いがちだが、順序は逆である。
ラジオが生まれたとき、大学や教会などが、こぞって参入し、教育や宗教の分野での活用も広がった。しかし、次第に採算が合わなくなり、大ネットワークが生き残るようになった。ラジオを最初に活用したのは、ニューディール政策を行った、フランクリン・ローズヴェルトである。彼は、「炉辺談話」とよばれるラジオ放送を300回も行った。当時は、大恐慌の時代。人々の生活は苦しく、余裕などなかった。4人にひとりが失業という時代だった。しかし、ラジオと映画のどちらをあきらめますか、という世論調査をしたところ、80%の人は、映画をあきらめると答えた。ラジオは、絶望の中での、ただひとつといってもいい娯楽であり、希望のともしびだった。
その後、戦争の時代が過ぎ、1950年代に入るとテレビ時代が始まった。私は不勉強で、今回初めて知ったが、アメリカでテレビ放送がスタートしたのは、1952年。日本は53年だから、日本のテレビ時代がいかに早かったかがわかる。アメリカは、技術開発から、本放送のゴーサインが出るまで、なんと5年を要した。いつも、われわれは、アメリカの決断はスピーディーで、日本は決断が遅いなどという強迫観念にとらわれているが、こと放送や、メディアに関して言えば、日本の反応は機敏である。日本のテレビ好きは、たぶん世界でも珍しいのではないだろうか。
さて、アメリカは、自由競争により、良質のものが育つという考えが圧倒的だという神話がある。しかし、ケネディ時代のFCCを見ても、放送の公共性、社会的役割というたがを、しっかりはめようとした時代もあった。そうした流れが、のちのPBSにつながっていく。
FCCの規制は社会主義的だという批判は、これまで何度も、間欠泉のように起きている。リベラルというと、「自由」と辞書では訳すが、むしろ公共のために自由を規制する、大きな政府ということを表す言葉だ。アメリカにおいて、リベラルとは、一時は、「容共」などと同義語であり、反米的というレッテルにも使われた。このあたりは、今の日本とも似ている。
話は飛ぶが、今晩は、実は実家の大阪に来ている。うちの父は「俳句」が好きで、帝塚山の人権センターの会議室を借りて、句会を開いてきた。しかし、橋本市長になってからは、「人権」センターということばは、ご法度になり、職員も交代したのだそうだ。人権とは、ヒューマンライツのこと。中でも、根強い部落差別解決のために、センターの役割は大きかった。それを、偏向しているだの、既得権益打破だのといって切り捨てるのは、いかがなものか。アメリカのマッカーシーの時のように、エド・マーローのような放送人が出てこないものだろうか。
マッカーシーでいえば、反撃に会って倒れたというより、ほとんど自分の足がもつれて倒れたという印象が強い。大阪でも、同じようなことが起きるのかもしれない。
それにしても、アメリカの放送機器は、GEや、ウエスティングハウスといった企業が、開発した。この2社は、その後、原子力発電所の建設にも深くかかわっていく。いかに、放送の世界からのすそ野が大きく広がっていたかの証でもある、と河村さんは、「はじめに」のなかで書いておられる。この記述は面白い。ラディオアクテヴ、という単語は、放射線を発するということで、ラジオが活発という意味ではないが、語源的にも、両者は、とても近いように思う。

本棚から 引っ張り出して新幹線でもう一度読んだ

十三のでっかい「きんつば」 おいしい

大阪は やっぱりスーパー玉出でしょう

大阪でなくても あかんで
5月
12
きのうは、埼玉大学でのゲストスピーカーの3回目。大学の正門のある古書店・大学書房で本を買うのが楽しい。ご店主は、いつも話好きで、学生たちに本を薦めたり、人生のアドバイスをしておわれる。学生たちも、おじさんとの会話が好きで、行くたびに、学生とご主人とのやりとりが聞けて楽しい。店に並ぶ本は、大混乱。まるで私の研究室のようだ。これまで、日本の古本屋を歩いたなかで、本が乱雑に置かれている度合が、最高レベルだったのは、福岡の古書店だった。とにかく足の踏み場がなかった。高円寺にも、むかし、すごい店があった。大学書房は、その次のランクだと思う。でも、なんだかほっとする。値段が手ごろなのもありがたい。
きのう求めた本は、有賀夏紀さんの『アメリカの20世紀』(中公新書・上下 初版2002年)だ。有賀さんは埼玉大学の教員。大学で教科書として学生が使っていたものだそうで、上巻には線が一杯引いてある。2冊で200円だった。今、ベン・シャーンのことを調べているが、どうしても1930年代や、50年代・60年代のアメリカの政治社会のことを、避けては通れないため、基礎知識を確認しようと購入した。
それを読むと、アメリカ社会が、いかに放送というものと一体であったかがわかる。大恐慌を受けて、フランクリン・ローズヴェルトは、ラジオで、「ニューディール政策」を呼びかけた。今、名古屋大学の教授をしておられる河村雅隆さんによれば、アメリカは、かつて多くの大学や教会は、ラジオメディアを持っていた。採算など度外視して、とにかく熱狂的にラジオからの発信ブームが起きた。その後、経営難からほとんどがつぶれ、大手ラジオ局のネットワーク化が進むが、ラジオを聴くという親和性は、アメリカ社会広くに醸成された。
そんな中での、ローズヴェルトの演説は、ものすごい威力を発揮した。「私たちが、おそれなければならないことは、恐れることです」と、ローズヴェルトは静かに、かつ力強く言った。銀行の倒産が相次ぎ、それを恐れるあまり、市民はタンス預金をしていた。しかし、ラジオ演説の効果はすぐに現れ、わずか1か月で銀行預金は10億ドル増えた。そもそも、銀行が苦しくなった理由はさまざまあるが、ドイツの第1次大戦の賠償金は、アメリカの銀行が融資しており、それがうまく回らなくなったことも、大きな要因であった。
有賀さんの本で、あらためてわかったことは、ケネディやジョンソンの時代に、ようやくアメリカの格差が、少し改善されたということだ。ニューディール政策の時代は、貧困対策に取り組んだが、結果的には富裕層をより富ませることにつながったし、社会保障や公民権運動を実のあるものにしたのは、ケネディではなく、悪名高いジョンソンの方だった。ジョンソンは、ローズヴェルトを尊敬し、ニューディールのこころを継承し、格差是正に取り組んだ。
アメリカの現代史を俯瞰すると、政策をめぐって、振れ幅の大きさの驚く。社会も政策と並行して揺れ動いてきた。「文化多元主義」と「多文化主義」。言葉は同じようだが、内実は真逆だ。「文化多元主義」は、統一したアメリカというものが前提にあって、そのうえで多様性を尊重する考えだ。一方、多文化主義は、各人種・民族集団の文化の尊重が、まず先にある。よく、日本における「アメリカ通」と呼ばれる人たちは、前者ばかりを強調するが、そんな簡単な国ではない。両者は、いつもせめぎ合ってきた。国旗・国家でさえも同様だ。
アメリカは、とにかく振れ幅が大きな国だ。政権交代によって、政策も外交も大きく変わる。よく、アメリカの戦略の軸はぶれないなどという、まことしやかな幻想があるが、まったくバカげた前提だ。そんななか、新たな日米同盟の強化という文脈のなかで、あくまで沖縄基地の固定化に縛られるとしたら、それはナンセンスなことだと言わざるを得ない。沖縄の基地の意味合いが変化しても、いつでもなんでもお使いくださいというのは、おかしい。意味合いが変われば、見直す。それしかない。現に、辺野古の問題は、普天間基地移設の文脈で考えてはならない。めまぐるしく変化するアメリカの戦略のなかでの、周到な新基地建設問題なのだ。
今週発売されている岩波書店の「世界」の最新号に、寺島実郎さんが書いていたが、脱原発のことを、アメリカの核の傘という問題で見つめる視点も、決して忘れてはならないと思う。

実に わかりやすく整理された本だ
5月
11
近頃は、朝はいい天気でも、午後突然、嵐が吹き荒れる日々が続いている。きょうは、どうなのだろうか。
朝、大学に向かうために西荻窪の駅に行った。すると、駅の構内、軽井沢のパン屋「浅野屋」の前あたりに、おじさんがぺたんと座り込んで、前にカーキ色の野球帽を置き、頭をさげていた。かつて、子どもの頃は、大阪の街でよく見かけた光景がそこにあった。昔は、傷痍軍人の人たちが、アコーディオンを奏でながら、立っていた。その後、その人たちの多くが在日韓国・朝鮮人であったことを、大島渚監督の「失われた皇軍」などによって、教えられた。
近年、自殺対策や精神保健を学ぶ中で、路上生活のひとたちの多くが、精神的にも障がいを抱え、それが状況をより困難にしていることも知った。稲葉さんや湯浅さん、清水さんたちの反貧困・自殺対策のための日々の活動に、本当に頭がさがる。支援を続けることが、どれほど大変なことか、ひよわな私には想像もできない。
さて、きょう西荻窪で出会ったおじさんの前の野球帽には、10円玉1個、5円玉1個、1円玉2個が入っていた。こんなことでは、朝のおにぎり1個も食べられない。私はポケットに手をやり、財布から、あるだけの硬貨を入れた。すると、いままで下を向いていたおじさんが、突然目を輝かせ、私の方を見て、言った。「素敵、素敵、あなたは素敵だ!」ものすごいパワーの声だった。
まわりの通勤客は、みなわたしとおじさんの2人を、怖いものを見るように、避けて通っていく。おじさんの手を握ってみると、にっこりした。歯は、「龍馬伝」の岩崎弥太郎役の香川照之のような感じだったが、へなへなした私より、ずっと生命力を感じた。
「どこから来られたんですか。大丈夫ですか」と聞いた。「大丈夫です。最近は竜巻が多いから、気をつけてください。」と、彼はしっかりと私を励ました。
きのうは、夜遅くまで、大学の会議が続き、今朝もその疲れが残っていたが、何か目を開かれたような気がした。昔、ひたすら街頭募金をしたことがあった。それ以来、赤い羽根でも、カンボジアの人々の救済でも、被災地の犬猫のサポートでも、募金箱を持って、呼びかけているひとを見ると、放っておけなくなった。単なる自己満足、自分のなかの問題だけのことなのだが、あの時の募金で、見ず知らずのひとから恩をいただいたお返しをいなければなどと、妙な気分が私を襲う。
あのおじさんは、きちんと、ビッグイシューとかに参加することはできないものだろうか。生活保護はどうなっているのか。精神保健福祉士としては、本来業務を果たさなければならない。機内で急病の乗客を助ける医師と同じだ。今度会ったら、もっと深い話を伺わなければと思う。

おじさんは 駅の構内に座っていた